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「城内空っぽ。誰もいなかった」

【歴史戦第9部 南京攻略戦 兵士たちの証言(1)】
「城内空っぽ。誰もいなかった」「虐殺あるはずない…」
2015.2.15 15:12

 「城内は空っぽでした。兵隊どころか、住民も、誰もおらんでした」

 南京攻略戦に参加し、昭和12年12月13日の陥落後に南京城に中華門から入城した元陸軍第6師団歩兵第47連隊の獣医務曹長、城光宣(じょうこうせん)(98)の目の前には、無人の市街地が広がっていた。

 少し前まで、門をめぐって日中両軍の激しい攻防戦が繰り広げられていたが、壊滅状態になった中国軍兵士が城外へ一斉に逃げ、城内は一転して静寂に包まれていた。中に入ると、厚さが約40センチもある門扉の内側に、進入を阻むための土嚢(どのう)ががっちりと積まれていたのを覚えている。

 南京城の広さは約40平方キロメートル、JR山手線が囲む面積の3分の2程度だ。城内には、れんが造りの平屋の民家が多かったが、どれも無人だった。住民らは城内に非武装中立地帯として設けられた「安全区」に逃げ込んでいた。

 「無抵抗の民間人を殺すのが虐殺。だが、人がおらん以上、虐殺があるはずがなか」と城は断言する。

 当時の軍隊に欠かせない馬を管理する任務を帯び、前線部隊と行動をともにしてきた城は、戦闘の様子をつぶさに見てきた。

 多数の死傷者を出しながらも11月中旬に上海を攻略した日本軍は、長江(揚子江)の上流約300キロにある南京を目指した。当時、中華民国の首都だった南京は周囲を堅牢(けんろう)な城壁で囲まれ、約20の門があった。

 中華民国トップの蒋介石は11月中旬、内陸にある重慶への遷都を決断し、12月7日に南京を脱出。南京市長ら要人の脱出が続く中、日本軍は降伏を勧告したが、拒否してきたため12月10日、総攻撃を開始した。

 上海攻略戦で杭州湾に敵前上陸した第6師団も、南京に向けて敵と交戦しながら進軍。南京の南側から攻撃に参加した。

 「それは激しか戦いでした」。城らの前には、高さ20メートルほどのれんが造りの城壁がそそり立っていた。城壁に構えた敵陣地からの攻撃、城壁の前に横たわった水濠(すいごう)が行く手を阻んだ。  「重砲や野砲で徹底的に敵をたたいて、収まったころ壁にはしごをかけて日本の兵隊がよじのぼって占領していったとです」


 戦後、東京裁判はこう断定した。

 「南京占領直後から最初の2、3日間で少なくとも1万2千人の男女子供を殺害、1カ月で2万の強姦(ごうかん)事件を起こし、6週間で20万人以上を虐殺、暴行や略奪の限りを尽くした」

 その後、中国側は「30万人が虐殺された」と主張するようになったが、城は首を横に振る。

 「城内では遺体も見とらんです」

 上海から南京に進軍する途中では、中国人の遺体を目撃している。塹壕(ざんごう)で何十人の中国兵が死んでいることもあった。

 「そりゃ、敵と交戦しながら進むけん。こっちもあっちにも遺体はありましたが、女や子供、年寄りの遺体は見たことはなかです」

 進軍は不眠不休で続き、夜が明けると敵兵約30人が目の前を歩いていたこともある。夜間に敵と交戦した後、同じ連隊の兵士が「多くの敵を斬った」と話しているのを聞いたこともあった。1週間ほど滞在した南京でも何かあれば仲間内で当然耳に入るはずだが、虐殺は一切聞いていない。

 城が所属した第6師団は熊本で編成された精鋭部隊で、中国では「世界で一番強い」と恐れられていた、という。その師団の一員だったことは、城らの誇りだった。だが、南京攻略時に師団長だった中将、谷寿(ひさ)夫は戦後、「南京虐殺の責任者」との罪で戦犯となり、処刑された。

 「哀れですばい。師団長は何もしとらんのに」

 城は憤りを隠せない。77年たった今も脳裏に浮かぶのは仲間の姿だ。南京城壁から狙い撃ちされ、敵弾に次々と倒れていった。

 「それでも日本の兵隊は強かですばい。弾がどんどん降る中でも前進していく。国のため国民のため突っ込んでいくんですけんね」

 戦後、獣医師として働き子供4人、孫とひ孫計22人に恵まれたが、当時を語り合える戦友は誰もいなくなった。間もなく99歳を迎える城は、無数のしわが刻まれた手をかざしながら仲間の無念を代弁する。

 「30万人も虐殺したというのはでっち上げですたい。貶(おとし)められるのは我慢ならんです」

 「抗戦勝利70年の今年こそ、南京市内の道路の名称には『抗戦』の要素をより多く取り入れるべきだ」

 南京市を省都とする江蘇省の行政諮問機関、政治協商会議(政協)の常務委員、徐菊英は先月、こんな提案を行った。

 「南京大虐殺記念館」と建設中の「抗戦勝利記念館」を結ぶ道を「抗戦路」と名付けるなど道路への命名は今年、相次ぎ行われる見通しだ。「南京事件」の生存者として“証言”した「李秀英」ら市民の名前を冠する案もある。

 「辛徳貝格路」との案もある。デンマーク出身の実業家で、1930年代に南京郊外のセメント工場に赴任した「シンドバーグ」の当て字だ。旧日本軍による攻略時に、2万人近い南京市民を工場などにかくまったという。昨年4月にはデンマーク女王、マルグレーテ2世が外国元首として初めて「南京大虐殺記念館」を訪問した。シンドバーグの逸話を手がかりに女王の南京訪問を要請したようだ。デンマークなど外国を巻き込み中国の国際的な立場を優位にする狙いがある。

 中国共産党は政権の正統性を「抗日戦争勝利」に求めている。2月5日には「中国人民抗日戦争勝利70周年記念」と銘打った撮影隊の“出陣式”が「南京大虐殺記念館」で行われた。

 これは政府機関の中国人民対外友好協会が主催する全国的なイベントで、全土から集められた10人以上のカメラマンが、抗日戦争に関する証言や史跡を記録し「8年の抗戦と民族の記憶」と題する写真集にまとめる。全土で巡回展示も行う。

 南京で出陣式を行ったことは、「抗日戦」の象徴的な土地として今年、南京を改めて強調する意図が感じられる。

 南京事件の犠牲者が「30万人」に上るとする説は中国の公式見解だ。

 「日本軍は野蛮にも南京に侵入し、残酷極まりない南京大虐殺事件を引き起こした。30万人の同胞が殺戮(さつりく)、無数の婦女が蹂躙(じゅうりん)殺害され、無数の子供が非業の死を遂げた。3分の1の建物が破壊され、大量の財物が略奪された」

 昨年12月13日、南京市で開かれた追悼式典。演説した国家主席、習近平は、事件の「凄惨(せいさん)さ」を繰り返し強調した。中国はこの日を「国家哀悼日」に定め、南京市などが主催してきた追悼式典を初めて国家主催とした。式典会場の「南京大虐殺記念館」の入り口には、「遭難者300000」と書かれたモニュメントが設置されている。

中国外務省報道官、洪磊も1月15日の記者会見でこう述べた。

 「南京大虐殺は日本の軍国主義者が犯した残忍な犯罪であることに議論の余地はない。過去の侵略を覆そうとする試みは日本の国際的な信用を損なうだけだ」

 洪の発言は前日に共同通信が配信した記事に関してだった。共同の記事は、習の「30万人」発言に日本外務省が昨年12月、中国側に「適切でない」と申し入れたという内容だ。

 官房長官、菅義偉(すが・よしひで)は1月15日の記者会見で「わが国の考え方は事前に伝えるとともに、事後にもしかるべき申し入れを行っている」と、報道を事実上認めた。

 このやりとりは香港紙「文匯報」に掲載された。外交筋は、中国共産党寄りの同紙が報じたことについて、日本が事実をねじ曲げようとしていると対外的に訴えたいとの「中国政府の意図を感じる」と話す。

 中国は英字メディアでも自らの立場を積極的に宣伝している。

 9月3日に北京で習指導部発足後、初めてとなる軍事パレードを開催することについて、1月下旬に海外メディアが「対日牽制(けんせい)」「中国の軍事力を誇示」と伝えた。これに1月29日付の中国の英字日刊紙チャイナ・デーリー米国版が反応した。「勝利パレードをめぐるばかげた意見」というタイトルで掲載された同紙の論評記事だ。

 筆者のルン・ピンは「中国では8年間の抗日戦で3千万人の犠牲者が出た。6週間の南京虐殺だけでも30万人が命を落とした。抵抗を通じ中国人民は反ファシスト戦勝利に中核的な役割を演じた」と訴えた。

中国メディアによると、習は南京事件をナチス・ドイツによるユダヤ人大量虐殺、広島・長崎への原爆投下と並ぶ「第二次世界大戦史における3大惨事」と位置づけている。「日本軍が引き起こした大虐殺」(習)との主張を展開するうえでも「30万人」の犠牲者数は必要なのだ。   (敬称略)

http://www.sankei.com/premium/news/150215/prm1502150031-n1.html

【歴史戦第9部 南京攻略戦 兵士たちの証言(2)】
「虐殺30万人説」の拠り所は南京軍事法廷 数字コロコロ、信ぴょう性薄く…
2015.2.16 06:00

 中国が主張する南京事件の犠牲者「30万人」説の起源は、戦後、南京で開かれた国民政府国防部審判戦犯軍事法廷(南京軍事法廷)と東京裁判にさかのぼる。

 いずれの裁判にも中国側が作成した「敵人罪行調査報告」(以下、報告)が提出された。

 報告は南京軍事法廷に先立つ1945年11月から46年2月にかけて、南京地方法院検察処が、住民の目撃証言や遺体を埋葬した慈善団体などの記録をまとめたもので、この中に被害者数を「34万人」と主張するくだりがある。

 だが、同じ報告の別の箇所には「集団虐殺二十余万人」、「確定被殺者既に30万に達し、なおいまだ確証を得ざる者合計20万人を下らざる」の記載があるなど、異なる数字が混在する。

 ほかにも被害者数について「27万9586人」という数が登場するが、その内訳として列挙された目撃証言や埋葬遺体数を足しても27万人には達しないなど不透明な部分が少なくない。(報告の内容は、洞富雄編『日中戦争南京大残虐事件資料集第1巻』=青木書店)

 2つの団体が埋葬したとする遺体数も、信憑(しんぴょう)性への疑問や重複の可能性が研究者から指摘されている。

 それでも南京軍事法廷はこの報告の内容を受け入れ、47年3月、南京攻略時の第6師団長(中将)、谷寿夫(ひさお)に対する判決で「集団殺害19万人以上、個別殺害15万人以上、被害総数30万人以上」と認定した。

 東京裁判では、弁護団から報告が掲げる死者数に疑義が呈されたが、「大虐殺」自体はあったと認定し、犠牲者20万人以上とした。ところが大将、松井石根に対する個別判決では「10万人以上」とした。

 中国の「30万人」主張は、南京軍事法廷の判決をよりどころにしているとみられる。

 「30万人」が学術的根拠を欠くことは、日本の研究者だけでなく、中国の研究者にも認識されている。平成19年1月、東京財団が開いた講演で、南京事件を研究する中国人学者が「政治的な問題に影響されたものだ」と指摘したこともある。

http://www.sankei.com/politics/news/150216/plt1502160004-n1.html

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【歴史戦第9部 南京攻略戦 兵士たちの証言(2)】
「誠に和やかに尽きる…」 城内に露店建ち並ぶ「平和な進駐」
2015.2.16 06:00

 旧日本軍が昭和12年12月、中国・南京を攻略した後の一時期を、城内で過ごした元海軍第12航空隊の3等航空兵曹の原田要(98)は、当時の雰囲気をこう振り返る。

 「とても戦争中とは思えなかった。南京は誠に和やかに尽きる、という印象でした」

 10日から始まった総攻撃で、九五式艦上戦闘機の操縦桿(かん)を握り、頑強だった南京城南東の光華門を攻める陸軍を援護した。両翼に60キロ爆弾をつるして、何度も城を攻撃した。

 「城壁に爆弾を命中させるとともに、敵兵を機銃で撃ちまくりました」

 陥落後に城内の飛行場に降り立った原田の印象に残るのは、日常生活を営む住民らの姿だった。露店が立ち、住民らは日本兵を相手に商売を始めていた。原田も豚を1匹買った。

 「足をひとくくりに縛った子豚で、仲間と一緒に食べました」

城外にあった中国国民党の創始者、孫文が眠る墓「中山陵」に参詣もした。「非常に平和な進駐」という記憶が、原田の脳裏に刻まれている。

 攻略戦のさなか、城内に残った住民らは、欧米人らで作る国際委員会が設けた非武装中立地帯「安全区」に逃げ込んだが、日がたつにつれ、平穏さを取り戻していった-。原田らの目には、そう映った。

 そのころの様子について平成19年12月に東京で開かれた「南京陥落70年国民の集い 参戦勇士の語る『南京事件』の真実」に出席した元将兵らも同じような証言をしている。

 「入城して2~3日後、住民の姿をみかけるようになり、時計の修理のため時計屋を訪れた」(昭和12年12月16日に入城した元陸軍第16師団の獣医少尉、稲垣清)

 「露店が何軒か出ていて、日本兵相手に商売をしていた。靴修理店、散髪屋などだった」「露店で印鑑を作り、城内は極めて平穏だった」(同月20日頃の城内の様子を語った元第9師団歩兵第36連隊の伍長、近藤平太夫)

 中国側が主張する「30万人大虐殺」が本当だとするならば、城内の至るところで凄惨(せいさん)な殺戮(さつりく)が行われていたはずだが、元将兵らの証言内容はあまりにもかけ離れている。「集い」で近藤は南京で作ったという印鑑を掲げながら強調した。

 「住民が平和に商売をしている一方で、毎日たくさんの人が虐殺されているというようなことは全く考えられません」

 原田は零式艦上戦闘機(零戦)のパイロットとして、米ハワイの真珠湾攻撃やミッドウェー海戦にも参加した。その経験から「戦争は、敵を倒さねば自分がやられてしまう極限状態なんです」と語る。

 南京攻略後、住民に平穏な生活が戻る一方で、「便衣兵」の存在が依然脅威だった。「便衣兵」とは民間人に偽装した兵士を指し、本来非武装地帯である安全区に武器を持って潜伏、隠れ戦闘員として日本兵らを襲ったとされる。

 原田は「便衣兵はゲリラ。接近してきて日本軍がやられる恐れがあった」と感じていた。休暇で南京城の北を流れる長江(揚子江)の河畔に行ったとき、原田は便衣兵を処刑する場面に出くわした。陸軍兵士らがトラックに乗せてきた中国人の男10人ほどを銃剣で突いたりした。

 観念した様子の男もいれば、川の中に逃げ込んで撃たれたり、泣きながら命ごいしたりする男もいた。

 東京裁判は兵役年齢の男性約2万人を機関銃と銃剣で殺害した、と認定したが、原田は首をかしげる。処刑の場面を目撃したのは、この一度きりなのだ。

 東京裁判に出廷した元将校の証言によると、城内で捕虜にした残存兵は4千人に上り、半数を収容所に送り、残り半数を後に釈放した。武器を持って潜んでいた便衣兵を軍法会議にかけて処刑することはあるにはあったが、国際法に従って対応していたという。

 多くの戦闘を経験し、さまざまな感情を胸に刻んだ原田は今も講演で戦争の恐ろしさを訴える。それでも戦後浮上した「南京大虐殺」には納得できない。

 「何十万人もの大虐殺は信用できない。もし、大虐殺があれば、中国人はわれわれに和やかに接しただろうか」

http://www.sankei.com/premium/news/150216/prm1502160008-n1.html

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【歴史戦第9部 南京攻略戦 兵士たちの証言(2)】
厦門の占領地で復興に尽力した堀内大佐 中国人から転勤延期の嘆願書も
2015.2.16 06:00

 盧溝橋事件を発端に昭和12年7月に始まった日中戦争は、局地紛争にとどめようとした日本政府の思惑と裏腹に中国全土に飛び火し、抗日運動を活発化させた。そんな中、占領した地域の治安を回復させ、これに感謝した中国人が留任を求めた日本軍指揮官もいた。

 福建省厦門を海軍第5艦隊の作戦部隊が占領したのは南京事件から約5カ月後の13年5月のことだった。14年11月から島嶼(とうしょ)部、禾山地区の海軍陸戦隊司令(部隊長)を務めた大佐(当時は少佐)、堀内豊秋は住民と交流を深め、荒廃した地域を復興させた。公正な裁判を実施し、治安を回復させ住民の信望を集めた。

 15年5月、堀内交代の報が伝わると、住民は転任延期を求める嘆願書を現地最高司令官の少将、牧田覚三郎に提出した。

 広島県呉市江田島にある海上自衛隊第1術科学校(旧海軍兵学校)内にある教育参考館には、嘆願書の複製がある。元館長、三村広志(97)が見つけた。

 黄季通ほか103人の連名、押印の中華民国29(昭和15)年5月1日付嘆願書にはこう書かれていた。

 「蒋(介石)政権が無理に抗日を唱えて民衆を扇動したことから禍が始まった。彼らは強制的に壮年男子を徴兵し、献金を強要するなど区民は痛ましい不幸に遭遇した。事変(日中戦争)が起こって住民は離散し、豊かな土地は廃虚と化し、田畑は荒れて家々は傾き、見る影もなくなった」

 「堀内部隊が本島に駐留して以来、利を起こして弊害を取り除き、信賞必罰を徹底して教育を普及し、農業を振興して橋や道路を造り、廃れていた衛生設備を直し、短期間に荒廃の区を良くさかえる域に戻した。海外に出ていた多くの華僑も(中略)善政のもとに復興しつつあることを知って、島に帰って(中略)昨年1年間に復帰定住した人の数は10年来の記録となった」

 「堀内部隊長らを長期にわたって駐留させて頂ければ、島民を幸福に導き、種々の業務がさらに復興すると考える(中略)。全島の住民が安住して生活を楽しみ、東亜和平の人民となろう。謹んで衷心から転勤延期を切望するものである」

 堀内が15年10月に去るに当たり、住民108人は寄付を募り「去思碑」という記念碑を建立し、堀内の徳をたたえた。しかし、戦後、中国共産党によって碑は破壊され、残存していない。三村は「占領した地域を復興させ、治安を回復させ、中国の住民から感謝された堀内大佐の遺勲を忘れず、語り継いでほしい」と話している。

(敬称略)

 【堀内豊秋氏】 明治33年、熊本県生まれ。大正11年海軍兵学校卒(50期)。デンマーク体操を取り入れた堀内式海軍体操を考案。日中戦争で厦門に陸戦隊司令として駐留。昭和17年1月、日本初の落下傘部隊隊長として、インドネシアのセレベス島メナド奇襲降下作戦を成功させた。終戦後の23年1月、オランダ政府よりB級戦犯容疑で起訴され、裁判では「部下の罪」をかぶって同年9月、47歳で銃殺刑となった。

http://www.sankei.com/politics/news/150216/plt1502160006-n1.html

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【歴史戦第9部 南京攻略戦 兵士たちの証言(3)】
「婦女子に手をかけてはいけないと厳命されていた」 憲兵配置…略奪・強姦ありえない
2015.2.17 06:07

 昭和12年12月の南京攻略戦をめぐる東京裁判の判決は、旧日本軍が残虐の限りを尽くしたと断定した。

 日本兵は市内に群がってさまざまな残虐行為を犯した。まるで野蛮人の一団のように放たれ、何の規律もなく、多くの兵は酔っていた。何ら口実もないのに中国人男女や子供を殺害し、死体は大通りに散乱、幼い少女や老女も含めて強姦(ごうかん)事件を起こし、射殺しては多くの住宅から略奪品を運び去った…。

 これが真実ならば、規律と統制を失った集団の、見るに堪えない不法行為の数々である。だが、元将兵の証言によると攻略後の城内は虐殺とはほど遠い平穏さがあった。加えて、軍には厳しい規律があったとの証言もある。

 「私だけでなく戦友や日本軍の名誉にもかかわる。悔しい思いをしました」

 元陸軍第16師団歩兵第20連隊伍長の橋本光治(99)は、身に覚えのない「虐殺者」の汚名を着せられたことに、今も怒りを禁じ得ない。

 昭和62年から平成元年にかけて、橋本の部下だった元上等兵らが出版した3冊の本の中で、橋本は「中国人を郵便袋の中に入れ、ガソリンをかけて火をつけ、手榴(しゅりゅう)弾を袋のひもに結びつけて沼の中にほうり込んだ」と描写された。

 橋本は名誉毀損(きそん)で元上等兵らを訴え、「客観的証拠もなく、真実とは認めるに足りない」として、1審から最高裁までいずれも橋本勝訴の判決が下った。そもそも、当時の郵便袋の大きさでは、成人男性を到底入れることはできなかった。

 「戦争中も軍紀は守られていた。そんな残虐行為ができるわけがない」

 橋本は昭和12年12月13日に南京入りし、23日まで城内外の敗残兵の掃討に参加した。翌月下旬に南京を離れるまで、1度だけ長江(揚子江)河畔の下関という場所で、捕虜となった中国人の男が使役されているのを目撃したが、一般住民の姿は見かけていない。

 「婦女子に手をかけてはいけないと厳命されていたし、夜間外出は禁止され、任務以外に自由な時間はありませんでした」

 橋本は日本の司法制度のもと、名誉を回復することができた。しかし、東京裁判は、元将兵にとって「身に覚えのない蛮行」の数々を断罪、弁護側の反論は一切聞き入れられなかった。

 判決では「攻略後最初の2、3日で1万2千人の殺害」という検察側の証言だけを採用した理由には触れられず、「1カ月間で2万の強姦」も数字の明確な根拠が示されなかった。

 こうした「不法行為」の多くが行われたという城内の「安全区」で、将兵はどう振る舞ったのか。軍は細心の注意を払っていたという証言がある。

 「安全区の掃討には厳重な命令がありました」

 南京戦に参加した元将兵らが集まり平成19年に東京で開かれた「南京陥落70年国民の集い 参戦勇士の語る『南京事件』の真実」で、元第9師団歩兵第7連隊伍長、喜多留治=当時(89歳)=はそう話した。

 安全区では、軍服を脱ぎ捨てて民間人になりすました便衣兵の掃討が、南京城陥落直後の昭和12年12月14日から始まり、喜多はこれに参加。安全区の警備も担当した。住民に十分配慮することや、掃討では将校の指揮に必ず従うことを命じられたという。

 掃討は同じ師団の金沢と富山の連隊が担当し、他部隊が安全区に入らないよう「金沢」「富山」という合言葉まで使っていた。喜多は略奪や強姦は「ありえないことです」と語った。

 南京攻略戦に参加した元陸軍第6師団歩兵第47連隊の獣医務曹長、城光宣(じょうこうせん)(98)も軍紀で思い出すことは多い。

 城は日米開戦後の昭和17年末に南方作戦に参加するまでの5年間の大半を中国戦線で過ごした。その間、城らは中国人の集落に駐留することもあった。日本軍と住民を分けるため集落の中央に線を引き、住民側に一歩も入ってはならないと厳命された。

 「憲兵がおりますけん、違反はできんし、われわれも絶対にせんかった。軍紀はそれほど厳しかったとです」

 東京裁判で弁護側は南京攻略戦はほかの戦場と変わりなかったと反論している。城も中国戦線で軍の規律が一様に保たれていたと強調した。

 ではなぜ、南京での「残虐性」がここまで突出するのか。城は「おかしかことですたい」と言って、ため息をついた。

http://www.sankei.com/life/news/150217/lif1502170003-n1.html

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【歴史戦第9部 南京攻略戦 兵士たちの証言(4)】
「虐殺は終戦後、米軍放送で知った」 絞首刑の松井石根大将
2015.2.18 05:00

 南京攻略戦で旧日本軍を率いた元司令官の大将、松井石根(いわね)にとって「南京大虐殺」は寝耳に水だった。戦後、東京裁判で松井はこう証言している。

 「(大虐殺は)公的な報告を受けたことがなく、終戦後米軍の放送で初めて知った」

 戦勝国による追及が始まる中で現れた「南京大虐殺説」。その責任者として松井は昭和23年11月12日、戦犯として死刑判決を受け、12月23日に絞首刑に処せられた。70歳だった。

 「松井大将は清廉潔白だった」

 元陸軍第36師団歩兵第224連隊の少尉、内貴(ないき)直次(93)は戦後、松井の元私設秘書、田中正明から幾度となく聞かされた。田中は11年に松井に随行し中国を訪れた。戦後は近現代史の研究者として活動、平成18年に94歳で亡くなるまで虐殺説に反論した。

 昭和18年夏ごろ、南京に約1カ月間滞在した経験のある内貴自身もこう言う。

 「南京に入ったのは攻略戦から6年後。街は商店や人であふれ、平和な様子だった。もし、大虐殺があれば、住民の恨みを買い、われわれは平穏に駐留できなかったはずだ」

国際法に留意

 昭和12年7月、日中戦争が勃発すると、予備役だった松井は上海派遣軍司令官に就任。上海、南京攻略戦で軍を率いた。南京攻略を控え、松井は部下に「注意事項」を示し、何度も軍紀・風紀の徹底を図り、捕虜を正しく扱うことや、住民に公正な態度を取ることを指示。顧問として法学者を南京に帯同しており、国際法に注意を払っていたこともうかがえる。

 12年12月17日に南京に入城した松井は、当時の様子をつづった日記を基にした供述書で「巡視の際、約20人の中国兵の戦死体を見たが、市内の秩序はおおむね回復した」といった内容を述べている。一方で入城後に一部の兵による軍律違反の報告を受けており、法廷でこうも証言した。

 「南京入城後、非行が行われたと憲兵隊長から聞き、各部隊に調査と処罰をさせた」

 非行件数はどの程度なのか。松井の部下は裁判前の尋問で「10か20の事件だった」と述べている。だが、判決はこう断罪した。

 「自分の軍隊に行動を厳正にせよと命令を出したが、何の効果ももたらさなかった。自分の軍隊を統制し、南京市民を保護する義務と権限をもっていたが、履行を怠った」

 また、南京攻略後に松井が帰国したことをめぐり、検察側は日本が南京での多数の不法行為の責任を問い、司令官の職を解き召還したという構図を持ち出した。松井は「それは理由にはならない。自分の仕事は南京で終了したと考え、制服を脱いだ」と明確に否定したものの、反論は一切聞き入れられなかった。

 「南京で2万の強姦(ごうかん)、20万人以上の殺害があった」と断定した東京裁判だが、松井に対する判決では「南京陥落から6、7週間に何千という婦人が強姦され、10万人以上が殺害」とそれぞれ数を引き下げた。

蒋介石と親交

 もともと松井は、孫文が唱えた「大アジア主義」に共感し、志願して中国の駐在武官を務めたほどだった。中華民国トップの蒋介石とも親交があり、蒋が日本で暮らした際には生活の支援をした。その蒋が喧伝(けんでん)した「大虐殺説」によって松井は命を落とした。

 松井は昭和15年、上海と南京の土を使い、静岡県熱海市に興亜観音像を建立。日中両軍の戦死者を弔い続けた。戦後、傷みだした建物などを保護しようと、陸軍士官学校58期の元将校らが「守る会」(平成23年解散)を設立、田中が会長を務めた。

 58期の元少尉の和田泰一(89)は、「普通は敵兵の慰霊はしない。だからこそ、松井大将の思いを残さなければと皆が感じていた」と語り、こう続けた。

 「当時の記録を読めば事実は別にあることは明らかなのに大虐殺説を許してきた私たちの責任も大きい」

 戦前・戦中を全否定するような風潮の中で大虐殺説は日本人にも「定説」としてすり込まれていった。

 昭和21年春、松井は収監前夜、親しい人を集めた席で次のような言葉を残した。

 「願わくば、興亜の礎、人柱として逝きたい。かりそめにも親愛なる中国人を虐殺云々(うんぬん)では浮かばれない」(敬称略)



 【戦犯】連合国は戦争指導者らを通常の戦争犯罪ではない「平和に対する罪」(いわゆるA級戦犯)として、東京裁判で裁いた。東条英機、広田弘毅両元首相、松井石根大将ら7人が絞首刑、16人が終身禁錮刑の判決を受けるなど途中死亡者ら3人を除く25人全員が有罪となった。

 ドイツで行われたニュルンベルク裁判では有罪となった19人のうち16人までが「人道に対する罪」に問われた。日本ではこの「罪」はだれにも適用されなかった。

http://www.sankei.com/life/news/150218/lif1502180008-n1.html

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